株式会社ラクーンホールディングス

小方の気まぐれ日記
小方の気まぐれ日記 第2創業期
2006年3月 上場予定日が決まった
3日、東京証券取引所よりマザーズ市場への上場の承認を頂いた。
社内には喚起の声が沸いた。上場予定日は4月6日だ。この1ヶ月がえらく長く感じられる。この日のために6年近くがんばってきた。
実は1年近くも前から、そのための膨大な量の準備を進めてきた。行われた会議や作成した資料は膨大な量に及んだ。しかしながら上場申請は会議や書類の多さで承認はされない。そう、みんなががんばったから事業が拡大し、成長の方向性が見えてきたから承認されたのだ。
「上場って何のためにするんですか?」と、ある部下が喫煙所で聞いてきた。
「そりゃ、決まっている。もっともっとお客さんに喜んでもらうために上場するのさ」
奇麗事と思う人もいるかも知れないが、その姿勢を貫けないのであれば上場なんかするべきではないと私は思う。
「上場したらお客さんは喜んでくれるんですか?」
「いや、それはあり得ない。上場によって手に入る武器をうまく使いこなしてお客さんを喜ばせようと、我々が努力しないとだめだ」
「武器ってなんですか?」
「武器とは信頼と資金の2つだよ」
「なるほど、じゃあその2つの武器を使って何かをしなくてはいけないんですね?」
「そう、俺たちは何かをしなくてはいけないんだ」
2006年1月〜2月 反面教師の事件
1月中旬に突然起こったライブドア事件は思いの外、大事件へと発展していった。最初は軽微な事件かと思ったが、ご存知のような現状になっている。まったく対岸の火事と思ってニュースを見ていたが、新卒で入社予定の学生が親に、「あんたの就職先は大丈夫?」と言われたり、上場準備の株価交渉に影響が出たりと、やはり影響はあった。
私の母までもが、「あんたんとこは大丈夫?」なんてメールしてきた。
「なんでも一緒にしないでくれよ」と言っておいたが、ただ同じ経営者として、またあの事件が起きた同時期にベンチャーをしている経営者として、反面教師として新たに心に誓うものを持つべきだと思った。
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2005年11月 アルバイトから社員へ
アルバイトの1人が社員になりたいと言い出して承認を得て社員になった。
相変わらずバイトから社員になる人間は少なくない。インターンとかではなくうちがどんな会社かも知らずにバイトに来て、普通に働いていてそうなるのだ。いわゆるフリーターと呼ばれる人たちがうちで社員になりたいと言い出すのだ。フリーターと言っても最近は優秀な人が少なくない。
フリーターを悪く言う人もいるが、毎日のように、企業の不祥事がニュースで紹介されるような時代に、説明会の列に素直に並べる人の方がよほど変な人のような気もしないでもない。私もこんな時代に学生だったら就職が嫌になっていたような気もする。変化が必要なのは学生ではなく、学生に夢を与えられない企業、もしくはそれを作っている我々の方なのではないだろうか。
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2005年10月 出展企業数が300社を超えた
「Super Delivery」の出展企業が300社を超え、商品掲載数は3万種類を超えた。
毎日、数十種類の新製品が展示会よりも早くTopPage上で紹介されている。そうなると全国の小売店さんがみんなで見に来てくれるようになる。アクセス数が1年で倍と言った感じだ。
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2005年9月 パスワード化
「オンライン激安問屋」にパスワードを付けてビジターから価格などを見られないようにした。パスワード化ってやつだ。「えっ?」って思う人がいるかもしれない。そう、「売買を行うサイトなのに今までパスワード化していなかったの?」って。そう、していなかったのだ。2000年のころ日経情報ストラテジーにその件だけで取材を受けたことがある。「オンライン激安問屋」には、いわゆるパスワードを使わずにトラブルやセキュリティー問題を回避する特殊な工夫が施してあったのだ。
期は熟し、みなさんも操作に慣れたと判断しパスワード化した。最大の目的は、これからの宣伝よりも現在いるお客様たちの利益を重視するためだ。
パスワード化することによって、売上などの低下も予想されたが、心配は杞憂に終わった。会員登録数が倍増し売上は順調に伸びていった。
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2005年8月 大事な言葉
ある取材で、「座右の銘はなんですか?」と聞かれた。座右の銘ってなんだかあまり好きではない。しかし、そうも言えず、大事に思っていた言葉を口にしてみた。

“ 楽観せず 悲観せず ”

私の造語だが、物事には真実や真価があるのにそれを探ろうともせず、表面的な世間の評判だけに惑わされ、ものごとを楽観視したりまた悲観視したりすると損をする。そして、面白いことにこれらは同じ人たちが示している行動だったりする。対中国投資ブームやITブームの時、よく調べもせずそれらと安易に付き合った人たちがいた。しかし、少しでも悪い評判が出ると潮が引くように一斉に引き上げていく。安易に群がった人も、また安易に引き上げた人も損をした。しかし、最初から最後まで腰を据えてちゃんと観察調査して実態を把握して、それに見合っただけの付き合い方をした人は結構得をしている。
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2005年7月 本の影響
本の出版がきっかけの講演会が増える。本を読んだ人からたくさんの手紙を貰った。ほとんどが創業予定の人や経営者の人たちだ。そう、あの本には創業時の悩みやビジネスモデル構築のポイントなど私自身のかっとうを元に描かれている。そしてラクーンの創業当時の秘話など盛り込んである。

資金がなかった私がどうやって会社を作ったのか?
経験、ゼロだったがどうやって事業を立ち上げたのか?
仲間をどうやって集めることが出来たのか?

妻は全然、本を見ようともしない。ある日、こういった。
「どこにも愛する妻に捧げると書いていないわよ」
むむ、それで機嫌が悪いのか?
「ところで、印税はどこに行ったの?」
むむむ、そっちか?
少なかったので部下とぱーと飲んでしまったのだ。不機嫌はしばらく続いた。
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2005年6月 経営理念
ある取引先の社長に、「おたくの社員は誇らしげに経営理念を語って帰ってったよ」と言われた。褒められたのだ。そう、経営理念というのは社長がどんなに一生懸命作ってもなかなか部下は記憶してくれないものだ。
だからうちの場合、社員だろうとバイトだろうと必ず入社時に私が直接経営理念を説明している。

弊社の経営理念は「ニーズ」というたった3文字だ。さすがに3文字なら覚えるだろう。説明だけはもう少し長めに存在する。

必要とされることそのものが経営理念なのだ。会社が行なうのは、言うまでも無く経済活動だ。この経済活動を行なう過程で成長性に陰りが出るのは市場のニーズを読みきれていないからだ。少し便利とか、あった方が良いという程度のニーズではいけない。
インフラのように「無いと困る」というものを開発し続けるのが弊社の経営理念だ。携帯電話、コンビニ、宅急便など、以前は無かったのに現在無いととても不便だと思われるもの。我々は数年後にこれらと同様に、「無いと困る」であろうものを見つけ、それを具体化してサービスとして提供する会社であり続けるのだ。これらのニーズは大きければ大きいほど社会貢献度は高くなり、またその分、社会的な応援も得やすくなる。人が周りの人に必要とされれば生き甲斐を感じられるように、会社もまた社会に必要とされればそこで働く人は努力を惜しまなくなる。
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2005年5月末 本を出版した
本を出した。個人的に出した本なので、従業員にも取引先にも買ってくれとも読んでくれとも言わなかった。親とかには贈ったが書店で買って送った。
私は、創業してから今日まで華僑の経営手法を参考にしたお陰で、幾つもの困難を乗り越えることができた。特に無機質なITベンチャーの不足部分をヒューマンな華僑式経営が補ってくれる。華僑の知人は兼ねてより多い方だが、彼らの経営手法には驚くべきものが多々存在する。
私は自分も親も普通のサラリーマンだったので彼らの教えこそがビジネスの原点と言っても過言ではない。教わった話の数々を人に話しているうちに噂になり、「ぜひ本に!」という熱心な依頼が2社も来た。
悩んだが、教わった話は誰に話しても感心されるし、いつか形に残しておきたいと思っていたので、思い切って文章にしてみた。実際に私が心から役立ったと思えるものを厳選して数十話を繋げて物語にしてみた。
ちなみに最初は手直しのライターさんがいたのだが、編集部の意向で結局最後まで自力での執筆となった。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4408106208/
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2005年5月 オンライン激安問屋の変換
「オンライン激安問屋」の商品群から受発注で販売していたものの取り扱いを無くした。無くすと言うよりも正確に言うとそれらの商品群はほぼ「スーパーデリバリー」に移動することになる。
「オンライン激安問屋」はアウトレット専門に開発した仕組なので、全商品を倉庫で預かって検品してから販売するのが特徴だ。
ただ、初対面の企業にいきなり”在庫を預かる”話をしても無理があったので実験的にスタート出来るようにしたのが受発注による取引だった。この流れの中にどんどんアウトレットではない商品群が増えていった。メーカーが提案したものがそのまま売れていったからだ。売れるんならいいんじゃないかということで増えていったのだ。

しかしながら、検品を必要とせずある程度単価があがるプロパー品(新製品)に関しての流通では「スーパーデリバリー」の方が遥かに優れている。
飽くまでも新製品ならばという前提に於いてだが、、、

1)ラクーンの検品を通す必要がなく直接メーカーから出荷されるので、検品や送料で大幅なコストダウンになる。このことは、販売側(出展企業)にとってはもっと高く売れて、購入側(小売店)にとってはもっと安く買えることを意味している。
2)更に、納期が大幅に縮まる。情報の伝達もダイレクトになるため、欠品などが減り、平均納期は更に縮まる。
3)販売側からの商品情報がタイムリーになる。購入側の質問や問合せも直接になる為、より高度な情報交換が可能となる。

つまりは、出展企業と弊社と小売店のWin-Win-WinのトリプルWinなわけだ。

今後、検品を要するアウトレット、ディスカウントしないと売れない商品は「オンライン激安問屋」、流通コストを押さえてスピードを持って全国の小売店にいち早く流通させるべき新製品は「スーパーデリバリー」という具合に明確に住み分けて行くことになる。
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2005年4月 スーパーデリバリーへの期待
遂に、「スーパーデリバリー」の売上と利益が、月次でともに「オンライン激安問屋」のそれを超えた。初めてのことである。一時的に起きたことであって、ずっとそうなるとは言えないが、うちの会社にとっては大きな転換期を迎えたことを意味してる。

雑貨と衣料に関する限り、100%インターネットを利用したメーカー→小売店への供給網(マーケットプレイス)が成功した例は私の知っている限り未だ存在しないはずだ。 だからこの事業が形を成す事は、我々にとって大きな自信へと繋がっていく。当然のことながらマーケットは小さくはなく、今後のことを考えると社内は大きな期待で満たされる
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2005年1月 ITの取り組みへの関心
去年の8月から始めたセミナーがとても好調だ。東京と大阪で月2回行っている。
参加者は主に新たな販路を模索するメーカー各社で、30〜50社が参加するが、満員になり締め切りになる場合もある。
世間が如何にITを利用した新しい販路に関心を持っているかが窺える。

新事業の伸びも順調で、売れた企業がいい噂を広めてくれているようだ。噂で問い合わせてきてくれる企業がだいぶ増えている。
しかしながら、もちろん全社売れているわけではない。差はかなりあるようだ。
我々も全ての商品を売る力は持っていない。
ただ、この業態だと商品力よりも販売力の方が圧倒的に差を生むようだ。当たり前の話だが、出来るだけ多くの商品を掲載しないと売れようが無いのだが、ちゃんと担当を付けて一通りの掲載をしている企業の殆どはよく売れているようだ。
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2004年12月 会社の成長
さらに「スーパーデリバリー」が黒字化した。やったのは事業戦略部の連中だった。「オンライン激安問屋」は既に黒字だったので、遂にダブルインカムになった計算だ。2つの事業があるわけだがシステムも顧客も共通しており、コストは1個分で収益が2個分という事になるわけだ。

あるスタッフの1人がこう言った。「以前は何もかにもが未完成だった。ルールも無ければ仕組みも無かった。それを考えたり作ったりするところから始めたのでとても勉強になった。しかし、今はほとんど出来上がってしまったので、勉強になる部分が少なくなってしまった。まるで新築が終わってリフォームしか残っていないかのようだ」と。
私はこの言葉を聞いていて、全体会議であることを話すことにした。
「完成したと思った時点で会社の成長は止まってしまう。スターバックスが10店舗程度で完成したと言ったら、今日はあっただろうか?ヤマト運輸がトラック20台でそう言っていたらどうなっていただろうか?とてつもなく大きな会社というものは、どんな時点に於いても"新築中"だと思っている人がいて、その人達こそが会社をさらに大きくしていくんじゃないだろうか?リフォームと言った時点で会社はその成長を終える。大きな人間はどんな段階に於いてもこう言う。『なんだ、まだ新築中でそれも始まったばかりじゃないか、いいときに参加したぁ』と」
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2004年11月 業績
この月創業以来の最高益が記録された。いつも下半期の方が業績はいいので、どうやら今年はいい年になりそうだ。2000年4月に増資してこの時を第二創業期と決めた。それから3年ちょっとで黒字化し、4年とちょっとで売上が10億円を超えた。
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2004年10月 本業一本
「選択と集中」という言葉がある。色々多角経営などせずに経営資源や資金を本業に集中的に投入し稼いだ方が儲かるといった意味だ。私はこの「選択と集中」という言葉が好きだ。
起業する時に決めたのは、「色々やる器用な会社を目指すのではなく、これしか出来ない不器用な会社を目指そう」ということだ。イメージとしては、ヤマト運輸、本田技研などの会社が理想に近い。これらも大規模になってからは色々と行ってはいるが最初の頃は本業一本で一気に成長している。

最近取材に来る人は、「次はどんな事業を立ち上げるんですか?」とかよく聞いて来るし、求人の面接に来る人は、「入ったらどんどん提案して新規事業を行って行きたいです」などと言ってくる。どうやら、世間ではベンチャーというものは色々なことをやる会社ということになっているらしい。この数年で事業家のセオリーが変わったのだろうか?
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2004年9月 温泉旅行
新入社員たちと温泉に行ってきた。ちなみに私はよく会社の連中と数人で温泉に行く。温泉が大好きな連中で作る一種の温泉クラブのような感じだ。一般社員の場合、私は直接業務に絡まないせいか互いに緊張も少ない。ということは反対に部長たちは、「土日に社長と一緒じゃ嫌だ」とか露骨に言う。分かる気もするが。。

今年は、色んなメンバーと4回ほど行ったが9月は伊豆の雲見に若い連中と7人で行った。大座敷を借り切って男も女も雑魚寝だ。金曜日の夜、残業が終わってから車に乗り込み、夜中の2時位に温泉宿に到着、温泉に入ってから一杯やる。これがついつい朝までなってしまう。みんな若いので大抵私が先にダウンする。決まって寝顔をデジカメで撮られる。遅い朝ご飯を食べてから海に行ってみんなで遊んで釣った魚をその場で私が捌いて、肴にして海岸で宴会をする。全員が椎名誠になった気分だ。夜は温泉に入り出たりしてまた、一晩中宴会をする。勿論これも私が最初に潰れる。ちなみにうちの会社は男女仲がとてもいい。みんなあんまり区別して考えて無いようだ。一般職が存在しないとそうなるのかもしれない。
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2004年8月 入社のルール
数えてみるとバイトさんだけで42名になっている。うちは軽作業をするスタッフが大勢必要なのだ。社員、バイトに関わらず入社の際には私が直接行う入社研修がある。社風を伝えるのが主な目的だ。うちには変わったルールがあって幾つか紹介すると。。。。
全員がさん付けで呼び合う。部長も社長もだ。バイトから社員どころか部長にまでなってしまう人間もいるので、君付け呼んでいると後で大変だからだ。
何事をも他人や環境のせいにしてはならない。。というルールがある。人のせいにしている人はいつまでたっても成功しない。
自分の給与を人に言ってはならない。うちは成功報酬型を取っているが、競争の原理が存在しないのだ。グラフも無ければ比較の表も無い。「達成おめでとう」とかいう垂れ幕も勿論ない。管理職に部下を比較する発言を禁止している。
倉庫を除く全てのスタッフは、入社一ヵ月後にブラインドタッチ試験がある。これを通過しないと正式採用とならない。そのため、スタッフは全員異常に入力が早い。私以外、、、、だが。
最後に、これだけは決して許さないと入社以来全員に言い聞かせている3つの鉄則なるものがある。「いない人の悪口を言わない」、「人の待遇を妬まない」、「派閥を作らない」の3つである。私はこの3つが組織を破壊すると信じている。これを守るだけで人間関係がとても良くなる。自分がされて嫌なことは人にもするなということだ。これは、今でも守られている。
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2004年7月 アルバイトの人たち
引越しをした。と言っても今までの事務所&倉庫に、隣のビルのワンフロアーを借り増しして、本社機能をそっちに移転したのだ。これで約360坪になった。一番初めは3坪だった。 そしてこの月、社員が2人増えた。2人ともバイトで入ったのだが、周りの社員たちの強い推薦により社員になった。このうち1人はまだ大学生だ。ちなみにそういう人間が他にも4名いる。
19歳(大学1年)で入社したプログラマーの羽山は、在学中に社員になり、卒業後マネージャーにまでなっている。20歳(大学3年)で入社した阿部は、現在セールスマネージメント部の部長だ。また34名いる社員の内、15名が元バイトだ。ちなみにインターンで採用した社員は1人もいない。バイトは随時受付けているし時給も普通に払うようにしている。
また、うちではバイトさんが大きな戦力になっている。バイトさんは社内の様々な仕事をこなしている。私は彼らが大好きで毎月のように一緒に飲みに行っている。何か夢があってバイトしている人間が多いせいか、いいやつといい子がやけに多い。毎日倉庫に行って仕事の邪魔をするのが日課だ。
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2004年1月 議論・決定・実行
転職希望者と面接していて、ベンチャーとワンマン経営の話しをした。
私は、こう伝えた。
「ラクーンでは、議論から実行までのプロセスを3段階に分けて考えている。議論→決定→実行の3つだ。
議論には色んな価値観が存在した方がいい。その方が組織は強くなる。セッカチなやつもいればのんびりしたやつもいる。この段階での選択肢は多い方が良い。
決定の場では、原則的に多数決は取らない。その問題の責任者がみんなの意見を参考にはするが、単独で決定をする。考え方としては野球やサッカーの監督が多数決など取らないのと同じ事だ。多数決=正解とは限らないのだ。また、失敗の責任を取る必要はない。そもそも失敗だらけなのだから、そんなことをしたらみんないなくなってしまう。
そして、最後に実行だ。こここそは"まるでワンマン経営のように"一丸となって行われなくてはいけない。実行が乱れると正しい方法ですら間違いへ陥る。間違いなら間違いでさっさと間違ってしまった方がいい。その方が早く次の手を打てるからだ。最悪なのはだらだらと間違いに至ることだ。」
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2003年12月 嬉しいお知らせ
とても嬉しいことがあった。最近、ラクーンのホームページがきっかけで小売店を開いたとか、売上が伸びたと言う人がとても増えてきた。あるお客様と電話で話した時の事だ。50代のその店主は穏やかな声でこう言った。「私はね。君のホームページがきっかけで小売店を始めたんだよ」私は驚いて感動した。なんとそれが3年ちょっとで遂に4店舗にまでなり、晴れて株式会社に登記したというのだ。あまりの嬉しさから周りのみんなでカンパを集めて贈り物をした。会社のお金ではなく敢えてカンパを集めたのだ。それぐらい嬉しかった。これもこのオーナーの努力や仕入れ担当者のセンスによる賜物だと思うが、そのきっかけに関われた我々はその事がとても嬉しかった。
インターネットを使う流通は地方にこそ強みがあって、これを使えばどんな郊外でも小売店を開くことが出来る。そしてそこにはライバルが少ない。そういう信念の元に始めたわけだから喜びは尚更だった。そして、この詳細は「毎日新聞」の1ページに丸ごと大きく紹介され、これにも驚いた。
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2003年10月 休む時間
スーパーデリバリーを手がける事業戦略部長と社長の兼務をするようになってから、4ヶ月とちょっとが経過した。(兼務は年内一杯続いた)これは思ったより負担だった。兼務ゆえに今までの倍の役割をこなす訳で、自宅に帰ってからも夜更けまでPCを見るような毎日が続いた。会社で部長で、自宅で社長だ。
しかし、睡眠と食事が不完全だとロクなことにはならない。特に睡眠が不足すると記憶が飛んでしまう。前の会議で話題に出た(らしい)事を全く記憶していないのだ。あんまり部下が真剣な顔をして、「ホントに覚えて無いんですかぁ?」と聞くので、私は「それはきっと小方Bが言ったんでしょう」と答えたら、「そうかぁ、小方Bかぁ」となんだかえらく納得して帰っていった。
ある日、部下たちが、それは小方Bが言ったのか、小方Cが言ったのかで相談していた。この厳しいジョークに改善を決意した私は、ちゃんと休みを取るようにした。これによって小方Bと小方Cは消えて行った。
小泉首相がテレビでのインタビューで、「何時間寝ていますか?」と聞かれ、「7時間はベッドに入るようにしています」と答えていた。寝ているとは言わずにベッドに入っていると言っているあたりがミソだ。なかなか寝れないと言う事だ。
ちなみに、「朝は夜より賢い【邱永漢著:PHP研究所】」はお薦めの一冊だ
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2003年8月 売れ筋を知っている人
最近多方面から売れ筋に付いてよく聞かれる。しかし、私は問屋の経営者だ。お恥ずかしい話、私だけかもしれないが、売れ筋を知らない。私が売れ筋を知らないのは、消費者に対しての接客をしてないからだ。それでもよく聞かれるので無理やり答えようとするが、そういう時は、なんだか自分が占い師になったような気がする。私の経験では、一番売れ筋を知っているのは何と言っても小規模小売店の店員達だ。109のカリスマ店員みたいな人達だ。毎日お客さんと話しており、実に敏感に流行を把握している。時には1mmの芽を1cmに育てるかの如く流行を作り出すことすらやってのける。だからこそ彼女達が話題になったのだ。私が言う「売れ筋を知っている人」は、必ず商品の全量を完全買取する人の事だ。それ以外はちょっと占い師っぽいと思えてならない。
ちょっと宣伝をさせてもらうと、弊社の「スーパーデリバリー」には店員さんに直接意見を聞く機能が付いている。
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2003年7月 大学でのセミナー
大東文化大学のセミナーでなんか喋ってくれと請われて行って来た。最近は大学からのお呼ばれが多い。大東文化大学は特にベンチャーに力を入れていてその力の入れようがなかなか凄い。先生達が基金を募って学生ベンチャーに投資をしているぐらいだ。講義が終わるや否や10人ぐらいの学生と先生から飲みに行こうと誘われた。一緒にがんがん飲んですっかり酔っ払って帰ってきた。大盛り上がりな夜だった。"女の子"は1人も居なかったけど、これらからのベンチャーは 女性力なしじゃ駄目だと思うな。
(ここにこう書いたせいで、後日女性だらけの大宴会に招待された。女性陣曰く、「女もいるぞ」とのことだ、、、楽しかった)
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2003年6月 乾杯
遂に総合での単月の営業黒字に成功した。スーパーデリバリーはまだ赤字だが、それ以上にオンライン激安問屋の利益が出た。全社の会計において経常利益が黒字化した。オンライン激安問屋の時とで2回黒字化した気分だ。全従業員でピザとお寿司を取りビールで乾杯した。乾杯の挨拶で、指でも鳴らして、「It's show time」なんて言ってやろうかと思っていたのに、みんなの潤む目を見たとたん息が詰まって何も言えなくなってしまった。
3年前に集めた30人は半分ぐらいになり、そしてそれ以上に補充をしていた。我々が誰と成功すれば良いのかが明らかになった瞬間であった。
さあ、これからが本番だ。黒字の残業は赤字の残業ほど辛くは無い。。。。
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2003年5月 リーダーに望むこと
社長室を出た。あんまり長期間篭るのはよろしくない。現場が分からなくなる。色んな部門の脇に席を作って移動を続ける。また、リーダー教育の必要が増えてきた。リーダーに望むべきものは管理能力であり結果なわけだが、普段言っていることを整理してメールで示すことにした。
<リーダーに望むこと>
○今日、好かれようと思うな。
○正しいと勝利はとても似ているが違う。
○生意気は良いが失礼は良くない。
○努力を評価する仕組みはない。ここは会社だ。
○常に全社利益を重視せよ。ALL for ONE, ONE for ALLの精神。
○リーダーが部下に対してするべき努力は仲良くすることではない。具体的な個性の分析と、その能力を最大限に引き出す事である。

そして、バイトの管理者も含む全ての管理者に、以下3点を重視するように指示を出した。
(必然性)全てのスタッフに自分の仕事の必然性がよく分かるようにしてあげてください。
(拡張)少しずつ良いので、任される範囲が拡張しているようにしてあげてください。
(体感)各人に自らの成果を出来るだけ認識・体感出来るようにしてあげてください。
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2003年4月 笑う犬の情熱に出演
フジテレビの「笑う犬の情熱」という番組にみんなで出た。初めてのバラエティ出演だ。ホリケンサイズという踊りを踊った。私の踊りなんて想像できないかもしれないが、私も隅っこの方で踊った。意外と楽しい。ベッキーとホリケンが社内で大暴れをしていった。ホリケンなんて電話に出ちゃって切る始末。財務経理部長の今野は暫くの間、来る人来る人に、「いや〜、見ましたよ〜」って言われていた。こんなに反響があるとは思わなかった。恐るべしバラエティ。視聴率が 30%超えたらしい。
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2003年1月 オンライン激安問屋の黒字化
セールスマネージメント部の連中が「オンライン激安問屋」を遂に黒字化にした。
これまでに「オンライン激安問屋」による億単位の規模での黒字化は無理なのではないかと、見切りを付けて退職していった人間もいた。その都度、私は肩を落としたが、彼らは逆に燃え上がっていった。検品のルールを何度も見直し、その精度をあげ、より良い物をセレクトする制度を作ることにより大幅にリピート率を上げたのだ。また、あらゆるコストを削減し、さらに作業の効率化を進めていった。不可能と言われると、「ぶちっ」とスイッチの入る輩がいて、そういう人間たちだけが不可能を可能に変えて行く。私の会社がみんなの会社になった瞬間を感じた。悪くない心地だった。
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2002年12月 社長室
私は、肩書・役職=偉いと言った思想を極力取り入れないようにしてきた。だから社長にお茶を入れてくれる人間も居なければ、部長にコンビニ弁当を頼んでいる人間もいて、転職者などは慣れるまでは少々戸惑う。
こうすると、現場統治は信頼関係のみによって行われるので、上下の人間関係がとてもよくなる。しかし、この考えには弊害もあって管理職の面々は大変な苦労を要する。何でも"ハイ"と素直に従うとは限らない部下たちを相手に年中説明を求められる事になるからだ。もちろん私にもそのツケは回って来る。

さて、そんな理由もあって私はいつも適当な場所に座らされていて、まともな席を貰ったことが無い。出張と席替えが、なぜかよく重なるために帰ってきたら余った場所しかないのだ。入り口の所っていうのがやけに多い。宅急便の受け取り係になってしまう。入るなり私がいるので、なんか「変な受付係」だなって思われている。
新規事業などに集中したいのを口実に社長室を作ることにした。半坪ほどのネグラのような場所だがなかなか集中できる。いい感じだ。数ヶ月間、ここにいることにした。
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2002年11月 小さなお店
ある大企業の方がスーパーデリバリーの会員はどのような方達かと聞いてきた。参考資料をお見せすると、「随分と小さなお店ばかりだ」と言っていた。そう、ラクーンの小売店会員は小さなお店が多い。しかし、この小さな小売店をばかにしてはいけない。みんなで買えば結構凄い量になる。オンライン激安問屋の売上だって最初年間で2000万円しかなかったのに2年で5億円を超えた。それにうちの会員さんたちは完全取のお店のみだ。在庫が残ったり商品が行ったり来たりはしないのだ。本当に取引先の小売店が大きい方がいいのかどうか良く考えて欲しい。「たくさん買うから安くしろ」が最近、「たくさん予約してちょっとずつ買うし、引き取らない商品もたくさん出ると思うけど、それでも安くして」に変ってきてないだろうか?
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2002年8月 スーパーデリバリーの出展企業が36社に
ある小売店さんからメールが届いた。スーパーデリバリーを高く評価してくれているが、末尾に、「近所のお店がスーパーデリバリーの存在を知る日を考えると、うなされて寝れない」と書いてあった、、、、一瞬笑ってしまった。ごめんなさい。

しかしながらその心配はないと思う。何故なら、パソコンを武器に商売をしている小売店はそれほど多く無い。また、自ら直接仕入れるという小売店オーナーもそんなに多くは無い。我々にとっては、1つの町に10万円買ってくれるお店が10店舗なくても、100万円買ってくれるお店が1店舗あればそれでいいわけで、そこの売上を200万円にするのが重要だと思っている。これがBtoB(企業間取引)なのだ。
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2002年6月 3で割り切れる月は面接の月だ
私は3ヵ月に一度、全社員と面接をすることにしている。時々、バイトともする。テーマと時間は決めない。つまり、何を話してもいいのだ。世間ばなし、相談、悩み、提案、、何でもいい。時々愚痴や不満も出るが、それがむしろ大事なわけで、みんなの吐いた二酸化炭素を材料に酸素を作りだすという意味で、経営は光合成をしなくてはいけないのだと考えている。 人数が増えてきているので毎日ちょっとずつやっても1週間以上掛かる。
面と向かって話しをしても意外と本音は出てこない。やっぱり社長に気軽にものを言うのはなかなか難しいのかもしれない。そういう場合は、私が本音を話す時間にもなっている。 ちなみに給与の査定も3ヶ月に一回だ。部長は上げる役目で私は下げる役目。ぼーっとしていると下がります。商売人感覚って良く言うけど、給料がずっと同じではそんな感覚、身に付くわけがない。ラクーンの給料は波乱万丈なのだ。私と部長が綱引きをする。3ヵ月おきの目標を決めて達成されれば必ず上がるという仕組みだ。また部長はマイナス評価をしてはいけない。マイナスは私しか出来ないようになっている。給料が上がった人はなぜ上がったのか、どの部分をどう評価されたのかが分かる仕組みになっている。この仕組みは規模が拡大しても細分化して守りたい。
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2002年4月 1億7,000万円の資金調達
シンガポール航空のコウ会長や日本アジア投資が、期待の意思表示として先陣切って追加投資をしてくれた。これに続くかのように、日生キャピタル(日本生命の関連会社)、第一生命キャピタル(第一生命の投資関連会社)、三生キャピタル(三井生命の関連会社)、SMBCキャピタル(三井住友銀行の投資関連会社)、信金キャピタル(全国信用金庫の投資機関)が合計で1億7,000万円の投資、資本金は2億9500万円に。
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2002年3月 【オンライン激安問屋】自社倉庫成功、コストダウン、リピート率向上
なんとか、倉庫の仕組みが出来てきたので、外部倉庫の商品をゼロにした。私は1ヶ月強で倉庫部分をみんなに任せてオフィス部分に移動した。財務経理部から報告が上がってきたが、検品に関わる経費が、家賃などを含めても当初の外注費を下回った。成功したのだ。坪9,000円もの家賃を含めても内部でやったほうが安くなったわけだ。倉庫に関わるスタッフ達が毎日作業プロセスを改良し続けた結果だった。返品や不良品率なども半分以下に減り、リピート率が急激に上昇をし始めたのだった。
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2002年2月 新規事業「スーパーデリバリー」出展企業5社でスタート。。。。
遂にスーパーデリバリーがスタートした。これまでに我々が構築してきたシステムとマーケットをメーカーに開放するのだ。今までオンライン激安問屋のみで仕入れてくれていた小売店さんにとっては、仕入先があっという間に数十倍になることになる。今までアウトレットのみだったのでワゴンセールの一部しか満たせなかった訳だが、スーパーデリバリーでは新製品・正規品を扱うため幅広い品揃えが可能になる。
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2002年1月 会社のルール
会社が大きくなるにつれ、ルールも増えてきた。ルールが増えると抵抗を示すのが人間だ。ある日、ある従業員が私に、「規模の拡大に併せて失うものがあるのですか?」な〜んて聞いてきた。、、、大げさなやつめ!しかし、この質問に答えなければいけない。そう、それが私の仕事なのだ。近代経営の場に於いて、説明こそは社長の最大の仕事なのだ。

「一体、なにを言っているのだ。志はもっと高くなきゃ。誰も出来なかったような大きなことを成し遂げようとしているだから、ルールがちょっと増えたぐらい大したことないじゃないか。日本が誇る偉大なるベンチャー企業、例えばホンダやヤマト運輸のような会社の創業メンバーに言わせれば、そんなの子供の頃の予防接種のようなもんだろう」。。。と言ったら分かってくれた。意外に素直だ。
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2001年11月 渋谷から水天宮前に引越し
全体への説明を終え、遂に引越しだ。年中何かを説明しているような気がする。

渋谷という町自体、若い人にはかなりの人気の場所なので水天宮前というとそれだけでがっかりする人もいた。「おい、そんな理由かよ」って思うかもしれないが、若い時ってそんなもんだ。それでも結局、辞めた部長以外は1人の脱落者も無く付いて来てくれた。

引越し後しばらくの間倉庫に入り全ての作業を直接行ってみた。どっかの偉い人(失礼)が挨拶にいらしたが、エプロン姿がよっぽど似合っていたのか笑っていた。倉庫で重要なのは正確さとスピード、、、そう、出来れば真心も同封しよう!
やがて若い部下の1人がこう言った。
「ここは我々に任せてください。あなたの仕事は他にあります」
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2001年10月 随分と大きなパネルディスカッション
このころから急に講演会が増えてきた。9月に行った東京商工会議所主催の講演会の影響だ。東商の力は侮れない。特に担当の女性がその後もあちこちに宣伝をしてくれたようで、公共団体、大企業、大学などから講演依頼が相次いだ。人前で話すのは得意ではなく、最初はかなり緊張したが回をこなす毎に慣れてきた。
一番大きかったのは国民生活金融公庫で、600名のパネルディスカッションだ。こんなに多いと緊張もどっかに飛んでいってしまう。

実は創業間もない頃、国民生活金融公庫の借入金に返済目処が立たなくなったことがあったのだ。悩みに悩んだ挙句、条件変更願いと事業計画書を作成し返済日の1ヶ月ほど前にお伺いを立てに行った。協議は受け入れられ、事なきを得た。それどころかそうしたことで逆に信頼を得たのだった。あの時、そうしていなかったらこの"お呼ばれ"は無かっただろうなぁ。
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2001年9月 引っ越しの話が持ち上がる。というか持ち上げたのだが、、、
これまでは、倉庫機能を外部に委託しており、京都、福井2箇所、山梨の4個所で、最大で1,000坪ぐらいを使い検品と出荷を行っていた。それらを全て都内に持ってきて自分たちでやろうと私が提案したのだ。社員たちは未知のものに恐れおののいた。1対全員の状態で反対をくらった。拡張性とコストを考慮し、地方の外部倉庫に任せたままにしようという意見が多かった。この時の会議は「朝まで生テレビ」のような状態だった。

「このビジネスを成功させる上では、一度自分達で全ての検品を行い、オペレーション機能と融合させることにより精度を上げ、問題への対処を敏感にし顧客満足度を向上させなくてはいけない」、、、取扱量の増加に伴い出荷・検品ミスが増加し、クレームがコントロール不能なまでに増えていたのだ。このままではいけなかった。会議が続く中、普段はおとなしく創業以来いるあかねさんが、「四の五の言ってないでやってみればいいじゃない!」、、この一言でやってみるこ とに決まった。

もともと外部倉庫を推進していた取締役部長がまるで責任を取るかのように辞表を出した。私は慌てて引きとめた。ベンチャー企業の人間がそんなんで辞表を出していたら、しまいにはみんないなくなってしまう。しかし、よくよく聞いてみたらちょうど起業したいタイミングだとのことだった。他の役員たちと相談して出来るだけ応援する事にした。これまでの功績があったからだ。現在起業し、弊社の顧問にもなっている。彼の綺麗な辞め方がお手本となったのか、揉めたりして辞めた人間はその後1人もいない。もちろん、それはいいことだ。彼のお陰かもしれない。
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2001年8月 社員25名、バイト22名、従業員急増
従業員の人数が増えてくると、細かなところまではなかなか目が届かなくなってくる。教育もしっかり行わなくては、、、。研修をしたり、ビジネスモデル説明会を開いたりと大忙しだ。どんな作業のスタッフであっても出来るだけ全社の多くの部分に関して説明するようにする。自分が全体のどの部分に携わっているのかを理解できるようにするためだ。これが、うちでは重要な方針なのだ。ほうれんそう(報告・連絡・相談)は上の人間こそが行うべきものだ。全ての人が経営に参加する。
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2001年7月23日 株主総会
また、シンガポールからコウ会長(なんとシンガポール航空の会長にも就任したらしい。)がわざわざ来てくれた。飛行機の空席が無く、エコノミークラスで来たらしい。そんなもんだろうか?とても不思議だ。
株主総会が終わった後で、職場のみんなで彼を囲みお茶話。みんな彼の事が大好きで、シンガポール航空会長の名刺が奪い合いに。子供のようなはしゃぐスタッフたちに彼も笑っていました。彼は決して相手を緊張させない、とても話しやすい人だ。世界中、どこに居ようとメールで相談したら親身になってアドバイスをくれる。
夜は、数人で居酒屋へ行き、わいわいと刺身を食べて日本酒を少々。
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2001年5月 起業家ネットワークの講演会に参加
一橋大学米倉先生の講演会を聞いた。この先生の講演会はかなりおもしろい。
「なにをやるかを決める前にまず、なにをやらないかを決めろ」
その通りだと思う。これこそは中小企業最大のキーワードかもしれない。
やらない方が良いようなこと、本業と密接に関係していないことをちぐはぐにやろうとする人が多すぎると思う。そして、その成功例は見たことがない。
特にベンチャー系の集まりは、なんか一緒にやらない?って感じの人がやたらと多く、私はこういうのが得意ではない。私のイメージする会社っていうのは目的が明確でそれに興味のある人が集まるところだ。そして、本業一本で一気に立ち上がる。。これが理想であり本来の姿だと思う。
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2001年3月 日経連にて講演会
日経連というと、「とにかく凄いところ」という印象しかなかったので、さすがの私も少々緊張。30分以上も早く到着してしまった。行ってみたら、いわゆる日本を代表する一流企業の会長・社長がずらりと数十人。テレビや雑誌で見る顔が客席の方にあるのは異様な気がしたが、これもまたいい経験と考え思いっきりアグレッシブにやらせて貰った。
しかしながら、大企業の首脳陣があんなに謙虚にかつ熱心に新しいものの勉強をされているのには少々驚かされた。そして未だにどういう意味で呼ばれたのかが分からないでいる。
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2000年11月 日経新聞社の表彰式
日経新聞社賞は本当だった。
DeNA(ビッダーズ)の南場さんや、ゆびとまの小久保さんが一緒だった。私以外のベンチャー経営者は皆女性、やっぱ女性の時代だ。そういえばうちの女性陣もやけに元気だ。
新聞は一般に真実を書く。しかし、日経新聞は5%の可能性も紹介する。なぜなら、それが経済に必要な情報だからだ。我々の役割はその期待と応援を裏切らないことだ。

会員企業数遂に5,000社突破。売り切れが続出し、お客様よりクレーム殺到。問い合わせに大あらわ。扱う物が過剰在庫なので、メーカー側があると言うのでいざ注文を入れてみたら、「やっぱり、無かった」なんてことが平気で起きる。これだと幾ら売れても儲かりはしない。インターネットで物を売るというのは大変な作業だ。
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2000年9月から始まったオークションが大好調!
新入社員が、「企業版のオークションを取り入れましょう」と言ってきた。私は「企業はオークションなんかやらない」と思っていたが、前の会社の上司たちが"部下には失敗が必要だ"と言っていたのを思い出しやらせて見る事に。ところがなんと大ブレイク。どうやら考え方を変えていく必要がありそうだ。
社員も20名を越えたが、みんな異常なまでのモチベーションで私の方が押されてしまう。
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2000年10月下旬 会員企業4,000社突破!
ある日ある時ある部下にこう言われた。「社長なんだから、時計とか服とかもう少しバシッとしてくださいよ」ローレックスしてベンツぐらい乗れとの事だ。私は、こう答えた。
「社長の欲が会社の大きさに影響するのは確かだと思う。でも、ローレックスやベンツは何億もしないだろう?俺の欲がそんなに小さなものでいいのか?」
欲にも色々あるが、欲の少ない社長の下に集まる社員の給料が上がりづらいのは確かなような気がする。世の中には驚くほど大規模な経済を動かす人達も居て、彼らがローレックスやベンツにモチベートするには少々稼ぎすぎだろう。彼らの持っている欲が地位なのか名誉なのか、はたまた自己実現欲なのか私には分からないが、物欲を遥かに超えるものが無いとそんなには頑張れないような気がする。日本の経済史を大きく変えた偉人たちが、「ある程度稼いだら引退して楽したい」とは言わなかった事は確かなのだ。
部下は、「さすが、、、」と言ったので分かってくれたのだと思ったら、「買えないとは言わず、そう言ってのけるのはさすが、、、」とのこと。一枚上手だ。私はこの部下に、"さすが、、"と思った。そう、この年はまだ赤字だったのだ。
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2000年10月24日 大阪商工会議所より講演依頼
この時は200人近い参加者にビックリ。少々緊張しながらも、自信をもってやっている仕事なのだから思う存分に話しをさせて貰った。
主催者から面白いと好評を頂いた。取引依頼が倍増した。
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2000年10月21日 第二回第三者割り当て増資完了
日本アジア投資、日本ベンチャーキャピタル、北海道ベンチャーキャピタルの3社より約1億8千万円の調達。
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2000年9月 講演会
初めての講演会が決まった。業態からいっても講演会は会社のいい宣伝になるのは確かだった。何度も何度も練習し、部下に聞いてもらい、時間を計ったりして、練習に練習を重ね、本番を迎える。そう、常にチャンスは一度しか無いと思うようにしている。
当日、主催者がなかなか部屋の中に入れてくれないので変だな思っていたら、何とお客様は2人だけだった。それでも気合を入れて最後までやった。見ていた主催者が他の講演にも紹介をしてくれた。
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2000年7月25日 増資後初の株主総会
新しいスタッフ達に、どうしても株主であるシンガポールテレコムのコウ会長を紹介したくてその旨を御願いしたところ、彼は株主総会出席のための来日を快諾してくれた。
朝、私は安いレンタカーを借りて空港へ迎えに行った。 時間が無かったので、私のぼろアパートでシャワーを浴び、ついでに桃を食べて株主総会へ。彼はとてもフランクな人だ・・・
株主総会は15分程で終わり、その後約1時間かけて今年の計画や事業プランについて発表。株主達とわいわいとしながら楽しい会議となった。
コウ会長の来日は日帰りとなったが、午後は親しいベンチャー企業の人たちなども招待して当社のスタッフ達と彼を囲み、簡単なパーティを開いた。みんなとても彼の事を好きになったようだった。

ある日、外出先から会社に戻ると社員達がざわざわと、、、なんだと思ったら、日経新聞社から1通の手紙が来ていて、「日経インターネットアワード2000ビジネス部門 日経新聞社賞」に内定したと通知が来ていた。スタッフの1人が、「これはきっとイタズラに違いない。電話して聞いてみた方が良い」と言い出した。私は通知を透かしてみたが普通の紙だった。当たり前だ。
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2000年5月 日経新聞に紹介された効果が徐々に表れた
来客ががどんどん増えてきた。3テーブル掛け持ちなんてのも当たり前の状況に。新聞や雑誌社の方、新たな投資希望の人たち、入社希望の人たち。。。上場企業の社長さんが来ていたが、私が新聞&テレビの2本の取材を同時に受けていたので、新入社員が対応しそのまま帰られたとのこと。ああー、ちゃんと教育しなきゃ。。お詫びの電話をしてみたら逆に褒められた。「あなたの部下はちゃんと自分でしっかり対応してくれましたよ。」さすが大企業の社長だと思った。

創業の経緯や経営理念など、4〜6月で通算300人以上にお話しした。同じ話を毎日し続けるのは、正直きつかったけどこれもまた初めての経験、余程テープでも流そうかと思ったが止めておいた。全ての人に自らの言葉で語りかけよう。。再び、心に誓った。でも、テープを流すお坊さんの気持ちが良く分かった。
大企業から転職してきた人間が、「大手代理店に500万円ほど払うとあっという間に有名にしてくれます」と言った。横で聞いていた部長が、「だめだ、そればかりは自分の力で直接やらないと小さく終わるぞ」と言った。そう、社風は浸透しつつあった。
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≪第1創業期 第2創業期 2006年≫