株式会社ラクーンホールディングス

小方の気まぐれ日記
小方の気まぐれ日記 第1創業期
2000年 忘れもしない4月7日、増資が完了!
増資のことが日経新聞に紹介される。
次の日、バイト君3名と渋谷へ行き、日中は物件を調査し夕方喫茶店で選定会議。即日決定し、1週間後に引っ越しをした。引越しに次の日、記者会見をやろうということになり、テーブルや椅子など30脚ぐらいを用意して張り切って待っていたが、、、、誰も来なかった。我々にとっての大事件は、みんなにとっての大事件とは限らなかった。
つまずきながらも何とか無事にスタートし、求人も行い。ゴールデンウイークの頃には従業員数12名に!

こうして、ラクーンは第2創業期に入りました!
2000年 3月
社員第一号が入社した。同時に19歳のアルバイト(現在の技術部チームリーダー)も入社した。創業以来、初の社員だ。面接は8坪の事務所で私とパートさん4人。
上へ戻る
2000年
先に投資を決めていたベンチャーキャピタルに事情を話し同日投資が決定した。そう、忘れてはならない事があった。こんないい話しはこれまでに助けてくれた社長さん達に報告しなくていけない。事情を聞いた社長さん達は喜んで投資に参加してくれた。1億2千万円の増資が決定!

その夜、1人で頭の中を整理した。最初の1年間に一挙に30人ぐらいの求人しなくてはいけない。トッププライオリティは、いきなり出会う30人とどこまで信頼関係を作れるかだ。半分?1/3?とても不安な挑戦だった。
どんな人間を集めるべきか、考えてみた。人一倍、向上心と好奇心の強い人間。物欲よりも名誉欲の強い人間。まっすぐで正しい価値観を持った人間。人や社会に騙され疲れていない人間。精神力と思考力に不屈の体力を持った人間。
考えれば考えるほど、これらの人間を人事権や評価制度だけで統治できるとは思えなかった。信頼関係だけがそれを実現する。出来るだけ詳しく、作ろうとする会社がどういう会社で、私自身がどんな人間なのかをHPに示して、納得して同意してくれる人だけに来てもらうようにしよう。間違ってもライターに求人広告などを書かせては行けない。全てを自らの言葉で語るのだ。そしてこの晩<経営者の考え方>というページを作成した。
上へ戻る
1999年 12月
売上僅か100万円程度ではあったが、モデルケースとしての単月黒字に成功!崖っぷちよりの復活!たったの100万円ではあるが、これは大きな出来事で自然な状態で利益が経費を超えたのは重要な結果だった。
いつの間にか東洋経済新報社の「インターネット・ビジネス情報」に紹介される。
何本かの電話が掛かってきた。「投資に興味はありませんか?」。はじめは怪しい金貸しだと思って断っていたら、ベンチャーキャピタルだった。取り敢えず会ってみる事に。そして、投資の意向を伝えられた。

幸運には幸運が重なる。その頃偶然、都内でシンガポール華僑のビットバレー視察団に出会い、帰国途中の成田EXPRESSの中でプレゼンテーションを行う機会があった。 1週間ほどして、いきなりシンガポールから電話があった。
「シンガポールテレコムの会長が君に会いたいと言っている」、、、それって誰だろう???
会いたいだけだろうか?行ったら何が起きるのだろう?
面白そうだから行って見る事にした。
シンプルながらも上品なオフィスにいた人当たりのいい紳士は、事業の話を聞きたいと言った。聞きたいと言われたので夢中になって話をした。何かが欲しいとかそんな事は何も考えなかった。1年以上もやり続けた自分の実験的ビジネスに興味を持ってくれる人がいたら相手が誰であっても同じようにしただろう。
30分ほど夢中になって事業の話をしたら、今度は質問攻めにあった。しかし、どんな質問にも明確に答えることが出来た。そう、朝から晩まで考えてきた事だ。分からないことは何一つ無かった。
その後、彼はいきなり切り出した。
「幾ら必要だね?」
何も考えていなかった私は、何となく5,000万円と答えた。
「OK、すぐに振り込むよ」私は驚いた。
上へ戻る
1999年 夏
みんなの応援を励みにありとあらゆる試行錯誤を繰り返す。色んな友人から色んなアドバイスとアイディアを得ることができた。提案を基に数百に及ぶ改善・改良を繰り返す。そして少しずつだが売れ始める。
上へ戻る
1999年 春
事業のインターネット化はあまりに大きなリスクだった。あっという間に売上が半分以下の大赤字になってしまった。資金が殆ど尽きて、貯金もほぼゼロになってしまった。遂にパートさんたちが「今月は厳しそうだから給料は払えるときでもいい」と言い出した。
最悪だ。経営者たるもの何が起ころうとも給料は最優先で払わなくてはいけないのだ。先輩経営者達から散々言われたことだった。
この夜、自分のバカさ加減につくづく愛想が尽き、石で頭を殴られる思いがした。パートさんとはいえ、現在世の中で唯一ついてきてくれている彼女たちにそんな事を言わせてはならない。翌朝、サラリーマン時代に作ったVISAカードでキャッシングしまくり無理やり給料を払った。みんなに言った。「一旦全ての開発をストップし、催事などを行い稼ぎまくる。ちょっと待っていてくれ」
半年ほど辛い日々が続いた。真夜中にトラックで商品を運び日中は販売する。体も心もへとへとになる。しかし、意外な成果があった。小売業の経験だ。小売業はそれまで経験が無かったのでこの経験はとても貴重なものになった。
やがて、政府や自治体の不景気対策の制度融資がはじまりこれに助けられた。不景気だ!不景気だ!とあちこちに説明しながら2,000万円程調達!これによってまた一命を取りとめた。多くの知人友人が協力・応援してくれた。この時の応援は本当に凄かった!みんな、心より感謝しています。そう、"感謝"という言葉を忘れたら経営者の寿命はそこで終わる。
上へ戻る
1998年 秋、マーケットを作る事を決意。
パソコンは本来嫌いだった。しかし、たまたま見た雑誌に、「直ぐに始めないと生き残れない」と書いてあった。随分と脅迫めいた記事だなと思いながらも帰り道にパソコンを買って帰ることにした。1ヶ月近くかけてHPを作ってみたが、全く売れず。ただHPを作っただけでは売れないという単純な事に気が付いた。しかし、全部を自分でやってみて、初めてインターネットの持っている可能性が見えてきた。「確かにこれは大至急やるべきだ、、、」
上へ戻る
1998年 春
まずは依頼された在庫の処分先を探して奔走したが、買い取り先は容易に見つかりはしなかった。テレビで見る有名なディスカウンターに問い合わせても、ただ同然の金額を提示され、また支払い条件も悪く、踏んだり蹴ったりだった。処分在庫であるため、大幅に原価を切っていると伝えたが、逆に「うちも必ずしも売れるとは限らないものを買い取る以上、リスク分も値切らないと利益が出ない」と言われた。

このビジネスは簡単では無い。しかし始めた以上簡単に諦めるわけにはいかなかった。
過剰在庫を買い取る業者が生み出す新たなリスクを無くさなくてはと考えた。出来るだけ多くの企業から、まさに今、本当にそれを必要としている企業を瞬時に探し出すシステムが必要だ。恐らく毎日のように数百のメーカーが数千の小売に在庫処分の条件交渉をしている。それもバラバラにだ。なぜ、みんなが安心して使える統一したルールがないのだろう。もし、売る側と買う側に公平なルールやマーケットがあったらどんなに便利だろう?これはまるで、大家と住みたい人が大勢いるのに不動産屋が無いような状態に思えた。そう、そこに大きなヒントが隠されていた。
上へ戻る
1998年 急激な消費の低迷
取引先もたて続きに倒産!外国為替の乱高下により、インポーター各社は瀕死の重傷を負った。輸出入にはリスクが多いため、どうしても中小の仕事になっている。彼らは小さな順に倒産していった。噂とは広まるもので、私が在庫処分のプロだということになりあちこちより在庫の処分を頼まれる。 私は悩んだ。絶対的なニーズは感じていたのだが、どうしていいのかは分からなかった。しかし、「これは天命なのだ」と感じた。そうしてついに在庫に関わるビジネスこそが自らの進むべき道と感じるようになっていった。
上へ戻る
1997年 倒産の危機
ある大手通販会社から商品を取り扱う旨連絡があった。大喜びした私は、販売予想数を割り出して商品を輸入し、出荷に備えたが、待てど暮らせど発注がない、、、おかしいと思い、問い合わせたら「テスト版で人気が無いので、本番では見合わせる」との回答。この電話一本で倉庫の商品が全部、過剰在庫になってしまった。

必死になりあちこちに電話し、在庫処分をしようとするも全くなしのつぶてだった。一山幾らだ、いらないね、手形なら買うけどやすいよ、見本を出せ売れた分だけ発注する。。中にはこっちの弱みに嬉しそうに付け込む人もいた。(この経験が、初期ビジネスモデル「オンライン激安問屋」のヒントに)

いよいよ倒産を覚悟し、お世話になった取引先へ挨拶回りをしに行ったところ取引先の社長から、「一度商売を始めた人間が簡単に諦めるな」と怒られた。この社長をはじめ結局数社が数か月分をキャッシュで買い取ってくれた・・そして倒産を免れた。

なぜ、こんな事になったのだろう?なにが悪かったのだろう?3ヶ月ぐらい悩みぬいた。同じ失敗を二度と繰り返したくなかったからだ。

在庫処分というのは本当に大変だ。「欲しいものは高くても買う」が「いらないものはただでもいらない」のだ。しかし、メーカーだろうと商社だろうと小売だろうと、必ず在庫の処分で困る事はあるはずだ。みんなにとっての問題なのに何故これを専門に解決する会社がないのだろう?この問題を弱みと見ない会社は無いのだろうか?この問題に正義感と自負心を持って取り組もうとする人は何故居ないのだろうか?この問題を科学し、夢と希望を持ってポジティブに取り組もうとする人は何故居ないのだろうか?

お世話になった社長さん達に菓子折りを持って挨拶に行った。その時こう言われた。「君がこの問題を誰かのせいにして、被害者となりきるなら何も残りはしないだろう。大切なのはそこから何を学ぶかだ」
この夜、起業して初めて涙がでた。しかし、ヒントはあったものの答えはすぐに見つからなかった。
上へ戻る
1995年 国内流通を開始
この後、取引した企業は、メーカー、中小の商社、流通、通販、広告代理店、外国企業、繊維関連企業など。現在運営しているマーケットプレイスの運営には浅くても広い知識が必要なので、この時の経験がとても役に立っている。これらの業界の中でも親身にその仕組みを教えてくれた方々が何人もいた。彼らはその業界の構造や仕組みを丹念に教えてくれた。
上へ戻る
1994年
輸入品の広告を出す予算が無かったので、毎日のように雑誌社を訪問し記事にして貰うように懸命にお願いした。最初の頃、全く相手にされなかったが次第に記事にしてくれる人が現れて、少しずつだが売上が増えていった。何故か編集の手伝いなどもさせられ、有名誌に記事なども書いた。このお陰で取引先は30社程度に。
上へ戻る
1993年 9月 帰国そして創業
帰国して、3万円の、風呂無しアパートを借りコタツを1個とその上に電話を1台置き私の創業が始まった。志は高かったが現実はあまりに厳しかった。食品や雑貨の輸入を開始するも、販売ルートなど有るはずもなく、当てずっぽうに営業を繰り返すが、不発の連続に。あれよあれよという間に貯金が10万円を切ってしまった。いきなりどん底!!

何とか商品に興味を持ってくれる企業を見つけたが、「年商30億円以下の企業とは契約できない」とか「創業3年以下の企業とは契約できない」とか「支払いは180日の手形でいいか?」とかの回答がほとんどで、誰でも安全で簡単に売れて、買える便利なシステムは無いのだろうか?と心底思った。(この時の経験が現在の新規事業SuperDeliveryのヒントに) やがて、親切な問屋や代理店など幾つかの企業に助けられ、売上が少しずつ伸び始める。
上へ戻る
1992年 9月 開業準備のため1年間北京語言学院へ留学
世界100カ国以上の外国人が留学している学校だ。やがて中国人の実業家たち(海外の仕事が多いので華僑と言った方がイメージに近い人達)と知り合う。
人生観とビジネス、お金と信頼をものの見事に融合させているのに私は驚いた。
彼らとの出会いが私の人生を大きく変えることになる。彼らは約半年間、惜しげもなく私に中華圏のビジネスを教えてくれた。
これが今日の私に多大な影響を与えている。 (この半年間に経験を紹介した本が、「華僑大資産家の成功法則」です)
上へ戻る
1992年 8月 起業のため、いよいよ退社
「僕は100万円で起業します。2年以内にこの100万円を1,000万円にしてそれで株式会社を作ります。もし失敗してこの100万円が無くなったら諦めて田舎に帰ります。」 裸になってどこまで行けるのかを確かめたかった私は敢えてこういう方法を取ろうと考えた。引き止められるかと思っていた部長が感心して、逆に10万円もの餞別をくれた。 さて、どうしたら100万円は1,000万円になるのだろう?言っては見たものの良い考えの浮かばない私は、取り敢えず中国へ留学することにした。なぜか、そこに大きなヒント(チャンス?)があるような気がしたのだ。
上へ戻る
1988年 パシフィックコンサルタンツ(株)入社
同社は設計エンジニアのコンサルタント会社で、4年半政府や自治体向けにコンサルタント業務を経験。気骨ものが多く、学ぶところが多かった。敏腕課長の口癖は「落とし前をつけろ!」だ。今でもこの言葉が頭の中にこだまする。技術者というのは何があっても辻褄を合わせるのが使命だった。
上へ戻る
1988年 大学卒業
焦る気持ちと裏腹に、何の経験も実績もなく起業する自信はさすがに無かった。 そこで、一旦企業を見ておこうと考えた。それとついでに東京も見ておこう。。そもそも自分の国の首都がどんなところか良く知らなかった。そうして私は上京した。
上へ戻る
1987年 大学3年の頃
リクルートが創立10周年を記念して主催した"米国ツアー"に参加した。10万円の自己負担で、本場米国のアントレプレナー(起業家)数十人と直接会って話せるという内容の企画だった。運良くこの選考に選ばれたのだが、それはあまりに強烈な体験だった。ろくに北海道も出たことが無いのに、いきなりニューヨーク、ボストン、ロサンゼルス、、そして起業家の体験談。起業家たちの言葉で特に印象的だったのは、「人生は一度限り、そして無限の可能性を持っている、自分の将来を少ない選択肢の中で決めてはいないか?」、「目標が明確になれば、するべき努力も明確になる、それが無い人は無駄な努力をたくさんしなければならない」など。このツアーへの参加が将来の起業の動機になっている。
上へ戻る
1963年7月5日生まれ 札幌出身
上へ戻る
第1創業期 第2創業期≫